ココア物語・改:17

ココア物語・改17
由美子先生は、少し苦い顔で息を吐いた。
「……あれはね、はっきり“亀裂”だったわ」
その言葉に、私は背筋を正した。
「ステラが、ある程度知られるようになって。
外部のスタジオを借りて、練習するようになった頃」
防音室。
無機質な壁。
時間で区切られた、閉じた空間。
「逃げ場がなかったのよ」
その日も、通し練習をしていた。
ライブを意識した構成。
ほとんど本番と同じ流れ。
「途中でね、美奈子が、また歌い方を変えたの」
一度や二度じゃなかった。
歌い方に揺れを増やし、伸ばし、感情を前へ出した。
「……良かったわ」
由美子先生は、正直に言った。
「上手かった。圧倒的だった。
でも――
涼介のギターは、その変化に追いつけなかった」
一曲が終わった瞬間。
空気が、張りついた。
『今の、何?』
涼介が低く言った。
責めるような声だった。
でも、怒鳴ってはいなかった。
『聞いてない?』
美奈子は、マイクを握ったまま、少し首をかしげた。
『でも、今の方が伝わるでしょ』
その言葉で――
取り返しのつかない「ずれ」が生まれた
「涼介がね、珍しく声を荒げたの」
『俺たち、伴奏じゃない!』
静かなスタジオに、その声が響いた。
『歌を支えるのはいい。でも、勝手に決めるな!』
美奈子は、すぐに返した。
『勝手じゃない。結果、出てる』
それは、事実だった。
「だから、余計に噛み合わなかった」
優一が間に入ろうとした。
春樹も、低い声で止めようとした。
でも…
「二人とも、聞こえていなかった」
『私の歌は、私が一番わかってる!』
『違う!俺たちの音だろ!?』
言葉が、ぶつかる。
音楽じゃなく、感情が。
「私も……止められなかった」
ドラムの前で、ただ座っていた。
叩けば壊れそうで。
黙れば、壊れていくのを見ているだけで。
「最後にね、美奈子が、こう言ったの」
『じゃあ、もういい……』
その声は、怒りでも涙でもなかった。
冷えていた。
スタジオのドアを開けて、
夕方の光が、廊下に流れ込む。
振り返らずに、出ていった。
足音が遠ざかる。
誰も、追わなかった。
追えなかった。
「それが……最後だったわ」
由美子先生は、そこで一度、言葉を切った。
「その時はね。
ただ、“今日はもう無理だった”って、それだけだったの」
夕暮れの空。
オレンジに沈む光。
「まさか……」
由美子先生は、視線を落とした。
「まさか、あの夜に、
あのようなことが起きるなんて――」
その時の私は、
何も知らなかった。
誰も知らなかった。
あの背中が、
もう二度と、同じ場所へ戻らないことを。
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